Books/書評

ハンナ・アレント 人間の条件

颐光 2017. 5. 1. 20:27


中央公論社 1973 ちくま学芸文庫 1994
ISBN:4480081569


Hannah Arendt
The Human Condition 1958
[訳]志水速雄



ヴィタ・アクティーヴァ。ハンナ・アレントが本書で提供するコンセプトである。「活動的生活」と訳す。
 アレントは人間のもっている活動力を一つと見なかった。少なくとも3つ、広げれば4つの活動があると見た。労働(labor)、仕事(work)、活動(action)、それに思考(thought)である。こんな分類をしてアレントがどうしたかったというと、真の政治参加を呼びかけた。この政治参加は選挙に行くとかオンブズマンになるということではない。サルトルが重視したアンガージュマンでもない。かつて古代ギリシアに展開されていた"公共の生活"というものを新たに再生したいというのである。
 これが難しい。何が難しいかというと、古代ギリシアにおける公共概念がわかりにくい。



そもそも古代ギリシアにはカオスとコスモスがあるのだが、カオスが自然で、コスモスが人工なのである。まず、それがわからなければダメである。
 しかも社会というものはこのカオスとコスモスの間に挟まっている。このことも理解する必要がある。その社会には生活というものがある。しかもその社会生活は二つの別々の領域に分けられる。それがポリス(都市)とオイコス(家庭)である。このポリスからポリティクス(政治)が、オイコスからオイコノミー(エコノミー=経済)が派生した。
 ああ、そうか、と単純に納得してはいけない。ポリスは明るい地上性に富んでいるところだが、オイコスは暗い地下世界とみなされた。このことを説明すると長くなるので省くことにするが、オイコスはアジア的で未開拓な、土地に根付いた野蛮なものとみなされたせいだった。
 そこでオイコスの代表(家長)がポリスをつくるメンバーになるという制度をつくった。これをノモス(制度)という。ということは、ポリスはオイコスという経済的な下部組織をもとにできあがった地上の楽園であるということになる。



 このようにノモスが正当にはたらいたとき、このポリスを「公」とみなしたのである。逆に、オイコスは「私」だった英語で私的性をあらわすプライベートという言葉は、ラテン語の"privatio"から来ているが、これはもともと「公が欠如している」という意味なのである。
 一方、ポリス的なるものはラテン語の"publica"などをへて、英語のパブリックになった。そこから「公表する」という意味のパブリッシュ(出版)や、リパブリック(共和制)という言葉が生まれた。
 このように、古代ギリシアの公共生活とは、オイコス(エコノミー)から出て公共領域に入るということだったのである。

 アレントはこれらの考え方の根底に流れるものに注目し、そうしたギリシア的公共性を取り戻すべきだと考えた。アレントの見方では、そうしたものはすでに近代の国民国家の確立とともになくなってしまっていたからだ。
 では、どうしたら新たな"公共の生活"をつくることができるのか。どうすれば、そのような公共領域で人々の労働・活動・仕事・思考が開放されるのか。
 そこにこそアレントの考える「人間の条件」が問われた。



アレントの両親は典型的なユダヤの知識人で、ナチス制圧下の社会主義者でもあった。
 そんな境遇に育ったアレントは、マールブルク大学でハイデガーやブルトマンに学び、ハイデルベルク大学ではヤスパースに、フライブルク大学ではフッサールに学んだ。これだけ哲人が並ぶと、それだけで惧れをなしたくなるが、1928年の学位論文が「アウグスティヌスにおける愛の概念」だから、ここはアレントっぽくなっている。
 1933年、アレントはドイツからパリへ亡命する。亡命とは何か。国家を捨てた人間になることである。しかし、国を捨てようとアレントがユダヤ人であることは変わりない。アレントはパリでシオニストとかかわって、若いユダヤ人たちをパレスチナに移住させるための社会活動に携わった。
 これは他者の中にひそむ「国家なき人間」のための活動である。アレントはそうした自分の活動に意欲を燃やし、「国家なき人間」とは近代国家システムが犯したものから離脱して、新たな何かに出ていくことをあらわしているのではないかと考えた。そうだとすれば、それは新たな公共性への第一歩ではないか。



 しかし、ことはそう簡単ではない。アレントの移住者への支援は難渋する。そのうえアレントはナチスのパリ進攻とともに捕らえられ、強制収容所に放りこまれた。
 そこでどんな体験があったのか、アレントはなかなか語らない。語ろうとはしない。おそらくはかなりの屈辱を体験したのだろうものの、それを沈黙の奥に秘め、アレントは戦後になって今度は自分自身がアメリカに移住して「国家なき人間」になっていった。そのような時期のアレントについて、師のヤスパースが『哲学的自伝』のなかで次のように書いていた。「アレントは法の保証を失って生国から放り出され、国籍喪失という非人間的状態に委ねられた場合の、われわれの生存の基本的恐怖をいやというほど知りつくしたにちがいない」。
 自身が体験したであろう基本的恐怖を告白するのではなく、アレントはそのような恐怖を突破すめための政治哲学の樹立に向かっていった。その内容はシモーヌ・ヴェイユとは異なるものだが、その姿勢はヴェイユに連なるものがある。

 ハンナ・アレントの思想の骨格は、世界の危機をどう救うかという点にある。
 そのために、世界がどのような危機に見舞われているかをあきらかにする。ぼくが読んできたかぎりの知見でいうと、アレントが指摘する世界危機は5つほどにまたがる。いずれも20世紀の特質だとされる。


      
(1)戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機。
(2)大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうという危機。
(3)消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとする「保存の意志を失った人間生活」の危機。
(4)世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえれば、世界そのものからも疎外されているという世界疎外の危機。
(5)人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっているという危機。



 これらの5つの危機を突破するために、アレントは「労働」「仕事」「活動」、およびそれらの源泉となる「思考」を原点に戻しなさい、それが「人間の条件」なのではないか、私はそう思うと問うたのである。
 それがヴィタ・アクティーヴァという概念にもなった。
 ここで「労働」というのは、原材料以外に買い物をせずに人間が何かを生み出すための労働をいう。できれば野菜を作りたい、そうでなくとも野菜を入手したらその先は自分で料理をしたい、わかりやすくいえばそういうことである。何でも買えるとおもいなさんなということだ。
 「仕事」は、自分の考えを自分で生み出すことをいう。言葉でも絵画でもよいが、自分が時間をかけたことが世界に何らかのはたらきかけになることをいう。いわゆるホモ・ファーベル(工作人間)として仕事に徹することである。「活動」は自分がそのことにかかわっていることが何らかのかたちで外部化されていくことをいう。
アレントは笛吹きの例をあげて、笛を吹いているあいだだけが活動であるような、そのような活動をもっと徹底して自身の体で認識すべきだと言っている。



 正直なところをいうと、このようなアレントの説明はかなり古っぽい。あるいは言うまでもないことをくだくだと説明しているようにも見える。カントもマルクスもハバーマスもこんなことはとっくにお見通しだった。そうも、思える。
 それにもかかわらず、アレントを読むと何かのラディカルなリズムが胸を衝いてくるのを禁じえない。真剣であるからだろうか。それもある。目をそらしていないからだろうか。それもある。こんなに定形のない「公」というものにこだわった哲人もいなかった。そういうこともあるだろう。
 が、ぼくが最も感じるラディカルは、アレントが「発生」を凝視し、その「発生」の再現を確信しきっているという点にある。そこなのだ。そのこと自体がアレントのヴィタ・アクティーヴァなのである。
 その発生とは「公の発生」ということである。2500年前にギリシアに芽生えたことだ。アレントはその"遠い発生"を信じたがゆえに、その"近い再生"を恃んだ。そして、そのことを確信することがあらゆる人間活動の最も根本的な条件になると考えた。
 世界中がG7のようなぬるま湯でお茶を濁している現在、20世紀の最後の政治哲学者としてのハンナ・アレントを繙く者は跡を断つまい。

 追伸。ハンナ・アレントをNPOの先駆者とか、NPOの哲人として片付けるのは、よしたほうがいい。アレントはNPOは容易に結実しないということをこそ訴えているからだ。



参考¶ハンナ・アレント(ハナ・アーレントとも表記)の著作は、順に『革命について』(合同出版社)、『イエルサレムのアイヒマン』(みすず書房)、本書、『過去と未来の間で』(歴史の意味・文化の危機・合同出版社)、『暴力論』(中央公論社)、『暗い時代の人々』(河出書房新社)、『全体主義の起原』(みすず書房)、『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局)、『パーリアとしてのユダヤ人』(未来社)というふうに日本語訳されてきて、だいたい出揃った。