春秋社 1968 講談社文庫 1974 ちくま学芸文庫 1995
本書の紹介は難儀である。ヴェイユに降りていけば、ヴェイユに拒否される。迂回すればヴェイユにならない。シモーヌ・ヴェイユという人がそういう人であるからだ。
そこでなぜぼくがそのように難儀するかということを伝えるしかないのだが、その前に言っておかなくてはならないことがある。日本人にしか「無」がわからないとおもっていたとしたら、大まちがいだということだ。
たしかに欧米の哲学や思想には「有る」に対するに「単なる無」が蔓延(はびこ)ることが少なくないが、「そこへ向かうとあるかもしれない無」を見ていた哲人は、何人もいる。
そのなかでも最も潔く、最も勇気をもっていた一人がシモーヌ・ヴェイユだった。
ヴェイユは、その「そこへ向かうとあるかもしれない無」のために「脱創造」(decreation)という言葉をつくった。そして、そのことを断固として実行するために「根こぎ」(deracinement)という言葉をつくった。この二つの言葉を説明するにはヴェイユの全思想を通過することになる。それはぼくにはお手上げだ。けれども、このことをわずかな比喩をもって暗示することはできなくはない。ヴェイユ自身がこう綴っている。
「頭痛。そんなときは痛みを宇宙へと投げだしてみると、痛みがましになる。だが、宇宙のほうは変質する。痛みをもう一度もとの場所へ戻すと、痛みはさらにきつくなるが、わたしの内部には、何かしら苦しまずにいるものがあり、変質せずにいる宇宙とそのまま触れあっている」。
ぼくが見るに、「脱創造」とは、造られたものを、造られずにいるものの中へと移行していくことである。そこに「無」への動きが関与する。
「根こぎ」とは、その移行を果敢に実行するために、その拠点の中へ降りて、そこにいる自分自身を攫(さら)ってしまうことである。あるいはそのようにしようと決断することだ。
これで充分に暗示的説明になっているとおもうが、もう少しだけ加えよう。ただし、暗示的説明しか許されそうもない。
ヴェイユは生涯をかけて「不孝」と闘った。そしてわずかな知らせをたよりに、ひそかに存在の戦線を組もうとした。しかし、なかなか不孝が取り出せない。取り出そうとすると、社会そのものが本質的にもっている悪が邪魔をする。善も邪魔をする。
善というものはつねにこなごなになって悪の中に散らばっているものである。だから、悪を排除しようなどとおもったら、すべてはおじゃんになる。善も悪もヴェイユにとっては同じものだった。けれども神から見れば、そこには潔いちがいがあるはずだ。
では、どうするか。たとえば悪の中に散っている善をひとつひとつ集めればいいかというと、それこそが悪に染まる。善だけを表明しようとすると、自分の中にある悪に嘘をつくことになる。どうすればいいか。ヴェイユは悪を直視することにする。そのためにはぎりぎりな自分をつくる。
そうすれば悪というものが実は単調至極なもので、いつも同じことを繰り返そうとしていることが見えてくる。悪がそういうものであることは、われわれ自身がよく知っている。悪はわれわれの中にも散っているものであるからだ。その悪を、不純なところから自分の中の純粋なところへ移し変えてみたい。ヴェイユはそれをこそ「根こぎ」とか「根こそぎに」と言った。
ヴェイユは、こう綴る。「純粋さとは、汚れをじっと見つめる力のことです」と。
シモーヌ・ヴェイユはぼくがいちばん語りたいくせに、とうてい語りえないと思っている女性である。
なぜなら、ヴェイユは自分を理解できるような誰の力も借りようとしていない。ヴェイユは、それならあなた自身が「脱創造」をしなさい、「根こぎ」でおやりなさい、いいですね、と言うだけなのである。
もうひとつ語りにくい理由がある。ヴェイユを賛美し、評論し、批評している著作や論文は数かぎりなくあるのだが、ぼくが怠慢なせいか、それらにはヴェイユらしいものがあまりない。これは評者たちに問題があるのではなく、ヴェイユにこそ問題があって、そこにきっとぼくが感じていることと同じ「清冽なる拒絶」が顔を出しているのだろうとおもう。
こうして、ヴェイユを語るにはこちらを晒(さら)すことを迫られる。これはたいていじゃない。そこで、ヴェイユは語られることなく、読まれることになる。
本書『重力と恩寵』は、マルセイユでペラン神父に共感していたころのヴェイユと語りあいつづけたギュスターヴ・ティボンによって編集された。もとはヴェイユが託したノートである。
ティボンが残した証言の数々はヴェイユを知るには貴重なものばかりだが、ぼくにはティボンが次のように書いているのが感極まった。「ええ、ヴェイユの唯一の罪は、タバコをすうことと、無学な人々にいつも水準の高い平等感から精神的な糧を与えようとするところでした」。
表題になった「重力」とは、人間の奥にひそむ「他者を必要としない気分の重り」のようなことをいう。
人々はこの重力の下降感によって逃げを打つ。「恩寵」とは、あえて他者を受け入れたいとおもうときの静かな高揚感である。これは上昇する。しかしヴェイユが「重力と恩寵」を並べるとき、まず自重で下降してしまうときにこそ他者を入れて上昇し、そこからふたたび新たな自分に向かって降りていくことをいう。
「恩寵でないものはすべて捨てさること。しかも、恩寵を望まないこと」なのだそうである!
あーあ、今度もヴェイユをちゃんと説明できなかった。いつか捲土重来だ。せめてこれを機会にヴェイユを読む人が一人でもふえてくれることを期待する。
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