みすず書房 1980
体験は文化によってかたどられている。自分が体験したことだからといって、それが自分だけにしか理解できないものとは想わないほうがいい。そこには「隠れた次元としての文化」というものがある。本書でホールはそのように言いたがっている。
テレビなどで動物の映像記録を見ていると、意外なことに動物の多くが敵や追送者がある程度近づくまで逃げようとしないことを知る。最初はゆっくりとしか動かない。そしてかなり相手が近づいてから、バッと逃げていく。これは動物に逃走距離あるいは臨界距離があることを暗示する。おそらくそれぞれの動物たちには「混みあい」の度合を調整する何かの機能が隠れているはずなのである。セイウチやオットセイの混みあい方とフラミンゴやミツバチの混みあい方とは異なっている。
これらはふだん目に見えている「なわばり」とか「ニッチ」とかとはちょっと違ったものである。動物たちのディスプレーの特徴だけを見ていてわかるものでもない。
これらは内分泌学(endocrinology)に擬していえば、何かの次元が体の外に洩れた外分泌学(exocrinology)ともいうべきものだが、ホールはこれらの「隠れた次元」をまとめて「プロクセミックス」(proxemics)という造語にした。「知覚文化距離」とでも訳せるのだろうか、本書はこのプロクセミックスに関する仮説の書である。発表当時、かなり話題になった。
人間の進化は遠距離感覚器の発達に特徴がある。すなわち視覚と聴覚である。そこには遠さと近さをさまざまな方法で知覚するしくみができあがっている。
けれども、それがどのようにできあがっているかは、たとえばイタリア人が顔をつきあわせて会話をしていたり、日本人が遠くから会釈しあっている行動だけを見ているだけでは、いったい何がそこに作用しているかを説明しきれない。いままではそれを「文化」とか「習慣」としかよんでこなかったわけであるが、ホールはこれをプロクセミックスとしてやや詳細に前方に投げ出すようにした。
すでにわれわれは、誰かと接していたり人前にいたりするとき、何かのきっかけで顔を赤らめたり、上気したり、冷や汗をかいたりすることをよく知っている。この反応はあきらかにフィジカルな反応なのだが、そこには微妙なメンタルなものが関与していることも知っている。われわれの体にはメンタリティの具合を厳密にフィジカルな反応に切り替える装置が機能しているようなのだ。
つまりわれわれには「冷たい目付き」とか「赤恥をかいた」とか「腹が煮えくりかえる」とか「肝を冷やした」ということが、実際におこっているようなのである。その心身関係の化学作用のメカニズムを解明することは本書の目的にはなってはいない。どんなプロクセミックスがはたらくときにそのようなことがおこるのかに注目をする。
ホールが特異な技量を発揮するのはプロクセミックスを人間に適用する場面である。
ホールは、人間におけるプロクセミックスが「密接距離」「個体距離」「社会距離」「公衆距離」の4段階によって構成されているのではないかと仮説した。
「密接距離」というのは愛撫や格闘を成立させるプロクセミックスで、ここには慰撫と保護、あるいはその逆の嫌悪と排除という感情が芽生える。ホールはこれをエルボー・ディスタンスとよんで人間の肘の距離によって感覚されているとのべる。
「個体距離」は人間が個人を感じられるギリギリの距離をいう。ここには自己と他者を隔て区別する“泡”が介在する。自分がエルボー・ディスタンスよりはっきり外にあることが感じられる距離である。「社会距離」は4フィート以上12フィートくらいのあたりのことで、ここでは相手から隠れようとおもえば隠れられるし、そのまま相手に感じられずに立ち去ることもできる。逆にここから相手に近づいていくと、相手に社会的な関心があると思わせることができる。「公衆距離」は25フィート以上のもので、そこでは人々は街頭者のようにふるまえる。
本書はこうしてプロクセミックスの分類的特徴をおおざっぱにつくりつつ、各国の文化特質の違いがプロクセミックスである程度は説明できるのではないかという領域に進んでいく、
ホールが最初に選んだのは、ドイツ人とイギリス人とフランス人におけるクロスカルチュラル・コンテクスト(通文化的文脈)であるが、日本の読者にはその次のアラブ人と日本人の違いが頷ける。ホールはアメリカ人たちが「インディレクション」(遠回し)だと感じる日本人の独得のプロクセミックスを、たとえば安部公房の原作を勅使河原宏が映画化した『砂の女』を引きながら、巧みに分析してみせる。「間」を持ち出して日本人のプロクセミックスを説明する箇所はまったく不十分なものではあるが、本書のなかではそれなりの説得力をもっている
本書を読んだのはこの本の翻訳版が出たころで、ちょうど「遊」を創刊する前後だったので、それなりの影響をうけた。
とくに「文化は脱ぎすてることはできない」という言葉が強烈に響き残った。「人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできない」というふうにもあって、「そうか、文化も大きな意味のメディアなのか」と得心したものだった。
今度、30年ぶりに本書をざっと目を通してみて、すでに本書の主張がほとんど“常識”になっていることに気がついたが、最後のページに次のようにあることは見落としていた。そこには次のように書かれていた。今日なお通用するだろう警告である。
「民族の危機、都市の危機、教育の危機はすべて互いに関連しあっている。その大きな危機とは、人間が文化の次元という新しい次元を発達させたことを忘れたときにおこるのだ」。
参考¶エドワード・ホールは文化人類学者であるが、若い頃から知覚と文化の関係に関心を寄せていたようだ。これはフランツ・ボアズやエドワード・サピアが言葉と文化の関係に最初に関心を寄せた文化人類学者であったことを受けたもので、その後の文化人類学の行方を決定づけた。ホールの著書にはベストラセラーとなった『沈黙のことば』(南雲堂)のほか、『文化を超えて』『文化としての日本』(ともにTBSブリタニカ)などがある。
'Books > 書評' 카테고리의 다른 글
シモーヌ・ヴェイユ 重力と恩寵 (0) | 2017.04.30 |
---|---|
ジョルジュ・デュメジル ゲルマン人の神々 (0) | 2017.04.30 |
ジョン・C・リリー 意識の中心 (0) | 2017.04.29 |
A HISTORY OF CARICATURE AND GROTESQUE (0) | 2017.04.29 |
モーリス・メルロ=ポンティ 知覚の現象学 (0) | 2017.04.29 |