野球帽をかぶったリリーさんは80歳を越えたばかりだった。最初はアイサーチの国際クジラ会議のプレシンポジウムでパネリストとして会った。リリーさんはそのシンポジウムの主人公であったのに、ニコニコしたり、あらぬ方向を見ているだけで、あまり語ろうとはしない。どうやら飛んでいるらしい。
その夜のパーティでは、椅子に坐りっぱなしのリリーさんのそばで、ぼくはリリーさんを覗きこむようにして、ずっと話した。その会話はとりとめなく幸福感に満ちたものだったが、とくにどんな説得力も加わっていなかった。にもかかわらず、リリーさんとぼくのまわりには人がいっぱい集まっていた。パーティにはティモシー・リアリーも若い恋人と一緒に来ていて、ネオテニー社をおこしたばかりの伊藤穰一君と話しこんでいた。
次にNHK教育テレビの番組で、ぼくがリリーさんにインタビューすることになった。マドモアゼル朱鷺がその場にいたいと切望していたが、収録はぼくの青葉台の仕事場でNHKスタッフだけの立ち会いでおこなわれた。
リリーさんはテレビの番組であろうといっこうにおかまいなく、あいかわらず不思議な言葉ばかりをゆっくり放っていた。
数日後、われわれはリリーさんやスタッフとともに竹村真一君の箱根の別荘に向かい、内々のパーティをした。そのあいだもずっと野球帽を脱がなかったリリーさんは、みんなでもう寝ようといって各自が部屋に入って数時間後、ふらふらと起きてきてぼくととりとめもない雑談をして、「では、あしたね」と言って、また部屋に戻っていった。ぼくも眠れなかったので、リビングに出て本を読んでいた真夜中のことである。
都合、3回にわたるリリーさんとの日々は、リリーさんがどうやら「仙人」とか「聖」(ひじり)とか、あるいは「宇宙の機関室の助手をしている絶対少年」とか、そういう“境界をもたない存在”に近いことを告げていた。
さて、本書『意識の中心』はジョン・C・リリーの数ある著書のなかでも、最も興味深い意識体験をリリー自身のエクササイズを通して報告しようとした1冊で、いわば「内なる自叙伝」とでもいうべきものである。
ぼくはすでに他の本もリリーさんとの交流も体験しているので、正確かどうかはわからないのだが、リリー入門としても最も適切ではないかとおもえる。ただし、イルカについてはほとんど言及がない。こちらは『イルカの心』を読んだほうがいい。
本書が何を訴えているかについては、あまり説明はしたくない。なぜなら本書は、リリーのきわどい体験がけっして豊富ではない言葉づかいで真摯に綴られていて、それが次々に体験的な脈絡にそって紹介されているため、ヘタに要約すると、その微妙な脈絡が失われてしまうからだ。どちらかというとさしずめ“ビデオテープのような本”なのである。そのビデオをどうあれ5分に縮めることには意味がなさそうなのだ。読者が自分で巻き戻し、再生速度そのままに見るのがいちばんふさわしい。
が、とりあえず流れだけを紹介しておくと、カリフォルニア工科大学で生物学と物理学の学士号を得たリリーはペンシルヴァニア大学で医学を学ぶうちに、意識のメカニズムに関心をもつ。
しかし、当時の科学による説明にはどうしても満足できず、“説明のいらない科学”に突入したくなる。これがリリーがLSDを用いて意識の体験に乗り出した最初の動機である。実験台はつねにリリー自身だった。
LSDの効果は劇的だった。音楽も事物の細部も信じがたい拡張を見せ、リリーに意識というものには限りない深部があることを確信させる。しかし、いつまでも薬物に頼るのでは、解放感がない。解発を辿れない。リリーは自分を辿ることを目標にした科学者なのである。そこで水と暗闇と温度だけでできている「アイソレーション・タンク」を工夫して、そこに入りこんだ。本書にはその体験の細かい事情は紹介されてないが、リリーはここで“ECO”とよばれる声を聞く。
アイソレーション・タンクによって自分が水棲生物でもあることを知ったリリーは、次にクジラやイルカに絶大の興味を向ける。ここがリリーの独創的なところで、ふつうなら「脳の科学」に埋没していくところ、しかしリリーは自分の水棲体験を拡張するにはイルカに尋ねる必要があると感じたわけである。実はリリーは第二次世界大戦中に呼吸と酸素マスクの研究に従事していて、そんな背景も手伝っていた。
リリーはやがて自身を「生命コンピュータ」であると認識し、そのメタプログラムの解明をはかりたいとおもっていく。1960年代の後半期になっていた。
最初はLSDの研究者であって催眠の研究者でもあったジーン・ヒューストンとボブ・マスターズに会い、ヘッドフォンをつかった意識の「テープ・ループ」(こだわり)を発見する方法にめざめはじめた。次に、カリフォルニアで科学会議に出席したついでにアラン・ワッツに会い、さらにエサレン研究所を創ったディック・プライスとマイク・マーフィを訪ねて、自分の実験(ワーク)の可能性を打診した。
こうしてリリーは、本書の中心を占めるさまざまなワークを体験していくことになる。今日ではひっくるめて身心セラピーとかマインド・ワークショップとよばれるワークである。ゲシュタルト・セラピー、ロルフィング、ヨーガ、メンテーションなど、かなりの実験が続いた。なかでもアリカのオスカー・イチャーソの指導によるエクササイズがリリーを変える。本書はグルジェフ型のこのイチャーソのアリカ・エクササイズによって、リリーがどのように意識の図形配置を試み、その解放を試したかという記録でおわっている。
ぼくもNHKのインタビューで聞いたことであるが、リリーには子供時代からのたくさんのトラウマがあった。弟を殺しそうになったこと、母から疎遠になりそうに思いこんでしまったこと、兄に違和感をもったこと、キリスト教を不審におもい神の存在を疑ったこと、いろいろだ。
本書を読めばわかるように、リリーはこれらのひとつずつにそうとう真剣に向きあっている。そして、自分の意識の奥にひそむメタプログラムの書き換えに挑んでいる。
本書を通して一貫して感じることは、このように生きた意識の暗部に巧みに入りこみ、これを解放感をもって大胆に書き換える方法が、宗教やオカルトや擬似科学をつかわずにやりうるものかという驚異である。
おそらくは誰もがやれることではあるまい。しかし、リリーさんと箱根の真夜中に交わした時間からは、まるで好きな童謡を唄っていさえすればそんなことは気分よくできるのだよというような、そんな安堵が伝わってきたのだった。
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