コンピュータがわれわれの脳や心のはたらきにどこまで食い下がれるかという問題は、1950年代にまだサイバネティクスに人々が熱中していた当時から、それなりに先駆的な議論がされていた。
ぼくは30代前半のころ、そのサイバネティックなダートマス会議やらメーシー会議やらの記録を読んで、おおいに興奮したものだった。そこにはベイトソン、ウィーナー、マカロック、フォン・フェルスター、ハーバート・サイモンらの錚々たる科学者がズラリと顔を揃えていた。そしてそのころすでにグレゴリー・ベイトソンが、「われわれはまだ"生きているシステム"というものを一度も覗いたことがないのだから、自然と情報と人間のあいだの"関係"をこそ研究すべきではないのか」といった発言をしていたのを読んで、ぞくぞくしていた。
以来、脳と心とコンピュータをめぐる喧々諤々の議論はひきもきらずに続行されている。けれども人工知能(AI)の可能性が爆発した80年代は、ぼくも片っ端からそうした動向を傍目で観察していたのだが、どうも成熟した問題を議論しているようには思えなかった。そこに登場してきたのがペンローズの『皇帝の新しい心』であった。
本書には「コンピュータ・心・物理法則」という副題がついている。そこでついつい「コンピュータは心を表現できるのか」という積年の疑問についに解答が与えられたのかと期待したくなるのだが、この期待はあっけなく裏切られることになる。
ペンローズはそのような"卑しい関心"をもつこと自体に容赦ない鉄槌をくだすのだ。ついでに、たちまちにしてAIを論破する。さらには「人間の脳も心もコンピュータなどでは解けるわけがない」と喝破する。
そのうえで著者は、「量子力学的宇宙像をどのように描くか」ということがわからなければ、脳の未来もコンピュータの未来もありえないという結論を用意する。そのために繰り出す話題は、複素数から複雑性まで、チューリング・マシン批判からゲーデルの非決定性定理まで、ブラックホールからホワイトホールにおよぶ。まことにまことに目が眩む。
では、この数式まじりの分厚い本書を読みおえて、われらが"皇帝"がどのような心をもっていたかを知ることができたかというと、これがまたできないようになっている。それが本書の狙いなのである。それで「なあんだ、がっかりだ、失望した」という気分にさせられるかというと、そうならない。逆なのだ。そこがペンローズの第一級の数学者としての腕になる。いまもまだオックスフォード大学にいる。
ロジャー・ペンローズは60年代にホーキングとともに宇宙論を研究して、「もし相対性理論が最期までずっと成立しているとすれば、物理法則が適用できない特異点がどんなブラックホールにもなければならないはずだ」という推測を打ち出したことで有名になった。
ブラックホールはこれですこぶる有名になり、さらにビッグバン理論がここから世間に広まりだした。
その後、ある結晶的な図形の性質を研究し、その図形をエッシャー図形のように平面に並べることはできるのだが、その並べ方は非周期的にならざるをえないという驚くべき法則を発見した。もともとエッシャーの有名な「無限階段図」のヒントをエッシャーにもたらしたのがほかならぬペンローズだったのだから、こういう発見があっても当然なのである。
もうひとつ、ペンローズには有名な「ペンローズのトリバー」という図形がある。トリバーというのは三本の棒(柱)のことで、三本の角棒が下でつながっているのだが、棒の先が分かれて見えるのに目を下に移すにつれて別のつながりが見えてくるというもの、だれもが一度や二度はお目にかかったものである。ペンローズはこういうものも次々に考案して、人間の知覚の曖昧さに強い関心をもってきた。
そのペンローズがコンピュータ万能主義に反旗をひるがえし、さらには人工知能に沸く認知科学者たちを一蹴しようというのだから、これは矛先をむけられた連中が不利である。
けれどもペンローズは、かれらの自信をぺしゃんこにしたいのが目的ではなく、量子重力論によって世界を眺める方法を伝えることが目的なので、ぺしゃんこになった「コンピュータによる心の科学の取り扱い方」の後始末には関心がない。
実際にも、本書の議論が本格的に始まるのは第六章「量子マジックと量子ミステリー」からである。そこで、そこまでの議論を次のようにまとめてしまっている。
たぶん、われわれの心は、古典物理的構造の「対象」なるものが遂行する、何らかのアルゴリズムの特徴にすぎないというよりも、われわれの住んでいる世界を現実に支配している物理法則の、ある奇妙な驚くべき特徴に由来する性質であろう。
ここでいう物理法則というのが、われわれの知覚の奥の事情になんらかのかたちでかかわっているかもしれない量子状態を支配している法則である。が、このことは容易には見えてはこない。そこでペンローズはまず量子力学を説明し、ついで第七章の「宇宙論と時間の矢」で、熱とエントロピーと時間の関係をのべ、第八章で得意の「量子重力を求めて」にとりかかる。
ここまでで、読者は「脳と心について新しく学ぶべきこと」がわれわれの知覚する「時間の流れ」に密接な関係があるらしいと思えるようになっている。その「時間の流れ」には量子と重力がからんで関与しているはずで、それが脳と心を支配する。ペンローズはそう考えたいわけなのだ。
ペンローズは量子論の枠組を変更したいのである。
それまで、新しい量子論をつくろうとする者は、量子力学が時空構造に関するアインシュタインの理論におよぼす効果を計算に入れてきた。それをペンローズはまったく逆に、アインシュタインの時空理論が量子力学の構造そのものにおよぼす効果から考えようとする。
このことはビッグバンにおける境界条件(初期拘束条件)をどう見るかという問題に関係がある。ぼくは十年ほど前にこのことに関心をもち、佐藤文隆さんや津田一郎君らと騒がせてもらったことがあるのだが、ぼくの想像力ではほとんど埒があかなかった。それをペンローズはワイル曲率仮説というものに帰着させようとする。これはここでぼくがかんたんに説明できる筋合いのものではなく、それこそホーキングとペンローズが死力を尽くして到達した仮説なので、ここはスキップすることにするが、それでペンローズが次にどうしたかというと、ここからが本書をつまらなくさせていく。
なんと今度は一転して脳を調べ(第九章「実際の脳とモデル脳」)、そのどこかに量子機能がはたらいているところがあるはずだという話になっていくからだ。本書では一つの例として網膜をあげ、ここにちょっとした可能性を見るのだが、そのくらいではたいした実証性をもたないので、あきらめる。ここからはさすがのペンローズも腰砕けなのである。
こうして終章「心の物理学はどこにあるのか」にたどりつく。ここも三分の二はつまらない。
ところが、あるひとつの示唆がぼくをびっくりさせた。この示唆というか、指摘というか、それがこの終章にあるだけで、本書はやはりペンローズの"勝ち"なのだ。
それは、「意識的思考のほうが非アルゴリズム的で、かえって無意識のほうがアルゴリズム的なのではないか」というものである。
この示唆がどんな意味をもっているかということは、実はペンローズも結論を出せないでいる。
読書というもの、科学者たちの最高の成果でさえ、その先で遊べるものである。ここは、諸君も遊ばれたい。
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