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岩波新書。
床屋に行ったあとに頭をスウスウさせながら書店の片隅で岩波新書の新刊を手にとり、高校生だからさんざん迷ったすえにやっと一冊を手にするくらいなのだが、それでもその一冊を紙の爆弾のようにもち抱えて部屋に戻ってページを開くまでの出会いの緊張というものは、いまでも思い出せるほどにどぎまぎするものだった。
そのころの岩波新書は一冊ずつが予期せぬ魔法のようなもので、装幀が同じ表情をしているだけに、ページを繰るまではその魔法がどんな効能なのかはわからない。ぼくはド・ブロイの『物質と光』やウェルズの『世界文化史叙説』などともに中谷宇吉郎の『雪』に耽った。
ただし、この日本を代表する科学の名著は、数年前から岩波新書から岩波文庫に移った。赤鉛筆でラインを引いた当時の、すっかり変色した岩波新書をいまおそるおそる開いてみると、まるで雪が降った跡が雪花化石のようになっているかのような錯覚がする。
一ページ一ページが霞んだプレバラートなのである。それはそれで記憶の粉塵のなかを歩むようで、懐かしい。
中谷宇吉郎は師匠の寺田寅彦にくらべると名文家でもないし、関心も多様ではないし、文章に機知を飛ばせない。けれども、日本人にはどうしても硬軟両義の感慨をともなって語らざるをえない「雪」という主題に、ひたすら一心に向かっているところがたいそうロマンチックに見えていた。また一途に見えていた。
ながらくそう思っていたのだが、ごく最近になって、この印象をあらためる気になった。
中谷が生まれた石川県片山津の一隅に数年前に完成した「雪の科学館」を訪れたからだ。磯崎新が設計した小さなミュージアムである。建物も構想もなかなか、いい。ぼくはここで、中谷宇吉郎がいかにダンディズムに富んだ生涯をおくったのか、初めて知ることになった。研究遺品や生活用品らも展示されているのだが、それらのひとつひとつが粋なのだ。その粋が、うん、そうかもしれないと確信できたのは、雪の科学に通じる粋なのである。実は30人ほどの老若男女を引き連れてここを訪れたのだが、そのメンバーの大半がぼくと似たような一種の澄んだ感動に包まれていた。
中谷宇吉郎は一生を通じてまさに結晶的ともいうべき知的な趣向に賭けていた。雪だけが結晶ではなかったのだ。
それは中谷が身につけていたネクタイ一本から扇子一本の先にまでおよんでいた。眼鏡入れも伊達な黒曜石で、色紙の文章も書もオツな片麻岩だった。旅行鞄もシャレた電気石だったのだ。そうか、クリスタルゼーションは中谷の人生に舞い散っていたのだった。
そこでもう一度、『雪』を読む気になった。今度は岩波文庫である。旧仮名遣いでなくなったのが残念だが、それはがまんする。いまは名古屋の科学センターの館長をしている樋口敬二さんの解説もついている。樋口さんは宇吉郎の弟子で、日本雪氷学の第一人者。やはり岩波新書に『雪と氷の世界から』の一冊が入っている。
はたして昔の読後感とはそうとうに変わっていた。科学的な見方を徹してわかりやすく叙述している「言葉の態度」が美しいのに気がついた。そういうことは高校生にはわからない。
次に「雪」を愛している中谷の心が、そのような心情についての記述がまったくないにもかかわらず、深々と伝わってくる。これはなかなかそのようには書けるものではない。やはりファラデーやファーブルを思わせる。
ついで、「雪」を漠然とさせないための視線が澄みきっている。われわれは雪は水の凍ったものだと見ているのだが、そして事実そう見て正しいのだが、では池の水が凍ったからといってそれを雪とは言わない。雪は水が空気中で氷の結晶になったものなのである。この僅かなちがいをもとに、中谷の記述は天地の裂け目をめざして膨らんでいく。
この本はそこを読んでいくのが、自分自身が大空を舞いながら雪やこんこんしているようで、雪氷化していく読書なのである。
そう思って、あらためて振り返ってみると、中谷は地上の雪にはいっさいふれないで、天から降ってくる途中の雪だけを凝視しつづけて本書を書いていたことに気がつかされるのだ。
ぼくはシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』のなかで「メタクシュ」というきらきらとしたギリシア語を何度もつかっていたのを思い出した。メタクシュとは「中間だけにあるもの」という意味である。
きっと雪にも重力と恩寵が関与しているのであろう。雪は重力とともに地上に落ちてくるが、その前にはいっとき重力に逆らって天の恩寵とともに空中で中間結晶化というサーカスをやってのけているはずなのだ。中谷はその「いっとき」を追いつづけた人だったのだ。
ああ、とてもいい気分だった。読みおわるとそんな気にさせる。
こういう読書を1年に二、三度はしたいものである。例の有名な「雪は天から送られた手紙である」は本書の最後の最後に顔をのぞかせる。
ちなみに、このような文章を中谷に書かせたのは、本書の序にもあるように、岩波書店に入ったばかりの小林勇である。ぼくは小林の露伴先生観察日記ともいうべき『蝸牛庵訪問記』(いまは講談社文芸文庫で読める)に、しばしば中谷宇吉郎が舞台を横切るように登場しているのが、ちょっとうらやましかったものだ。
「雪の科学館」は石川県加賀市の片山津温泉に隣接している。
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