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Strength to Love を読む

颐光 2017. 4. 20. 03:20

Strength to Love を読む
─ 公民権運動とキング牧師のキリスト教思想 ─
 加  藤  恒  彦
はじめに
かつて黒人が奴隷であったアメリカで,オバマ氏が黒人として初めて大統領に選ばれるとい
う歴史的な出来事が起きた。この出来事の不可欠な,そして直接の歴史的前提が 50 年代中盤
から 60 年代にかけてアメリカを揺るがせた公民権運動であったことは明らかである。さらに
公民権運動の背後には,奴隷制の時代とその後の人種隔離制度の時代を通じ,様々な形態で
三百年以上にわたって繰り広げられてきた黒人の自由を求める運動の伝統が存在したのであ
り,公民権運動は,その歴史的クライマックスであったと言えよう。その結果としての 1964
年における公民権法,翌年の投票法の成立,そして公民権法に基づいて実施されたアファーマ
ティブ・アクションは,黒人ゲットーにおける貧困層の黒人の経済条件を改善することこそで
きなかったものの,黒人の中産階級のアメリカ社会への統合過程を促進し,様々な分野で成功
する黒人たちを生み出した。
オバマ氏の大統領選出は,優れた候補であれば人種や性にかかわらずアメリカの最高政治権
力者の地位にさえ就くことができるという,40 数年前には考えられなかったような変化がアメ
リカの政治や社会のなかに生まれていることを証明した。オバマ氏は「チェンジ」を訴えて大
きな支持を得たが,オバマ氏自身がアメリカ社会の「チェンジ」の成果だったのである。
公民権運動がそのように歴史的な成功をおさめたのには,今から振り返れば次のような客観
的要因と主体的要因があったことを概ね認めることができよう。
第一に,第二次世界大戦の性格と第二次世界大戦後の新たな国際秩序におけるアメリカの位
置という問題がある。第二次世界大戦はその性格においてヨーロッパにおいてはドイツをはじ
めとする人種主義的ファシズム勢力と民主主義擁護の勢力の戦争,また,アジアを侵略する日
本軍国主義との連合軍の戦いという民主主義的性格をもっていた。そして戦後の世界秩序の方
向性をそのような民主主義的性格が規定することになる。


また,その後打ち立てられた新しい国際秩序において,一方では,ソビエトを中心とする社
会主義体制とアメリカを中心とする資本主義体制との冷戦構造が生まれ,他方では相次ぐアジ
ア・アフリカ諸国の独立と国連への加入という新たな動向のなかで,新興国をめぐる綱引きが
両体制間に起こり,自由主義体制の旗手としてのアメリカが,その内部に南アのアパルトヘイ
トに等しい人種差別体制をかかえることがアメリカ政府にとっても不都合になりつつあったの
である。1954 年に「公立学校での人種隔離を違憲」とするブラウン最高裁判決は,そのような
内外の有利な世界史的歴史展開を背景にし,古き奴隷制の伝統を色濃く残していたアメリカ南
部と連邦政府との間にいわば楔を打ち込むことになったのである。
第二に,公民権運動が,言論・集会・結社の自由と言った民主主義的諸権利が保証され,テ
レビをはじめとするメディアが発達したアメリカにおいて行われた運動であったこと。このこ
とは南部の裁判所による差別的法律による有罪判決,それに抗議するデモへの禁止命令や警察
による取り締まりと逮捕・投獄,爆弾などによるテロ行為にもかかわらず,運動が暴力に訴え
ることなく言論と大衆的行動によって要求や主張の実現を図る余地や可能性があったことを意
味する。とりわけ第一の要因ともあわさって,ケネディ大統領のもとにある連邦政府による運
動への一定の支持や保護を期待できる余地があったことも大きいであろう。
第三に,公民権運動の理念や目的,そしてその方法・手段・戦術が理にかなったものとして
行われたことである。すなわち,公民権運動はその理念や目的において,アメリカ社会におい
て様々な人種の平等を基礎にした人種統合を目指す運動であり,多数派の白人を排除し,敵視
するのではなく,その協力を求めた運動であったことである。言い換えれば,アメリカ黒人の
自由への長い闘いの歴史において,黒人がアメリカという国において自由になることへの絶望
や焦燥感からアフリカにアイデンティティや誇りの拠り所を見出したり,アフリカに帰ろうと
主張する分離主義的,民族主義的傾向が絶えず存在し,人種統合の方向と対立してきたのであ
るが,公民権運動は,アメリカ社会において黒人が白人と同等の立場で社会に参加することを
目指したのである。この点で公民権運動は,19 世紀の偉大な解放闘争の指導者フレデリック・
ダグラスや 20 世紀に入って,その方向を継承した W.E.B. デュボイスの伝統を継承している。
ダグラスやデュボイスに代表される人種統合をめざすという方向は,アメリカ独立宣言や憲法
に謳われている万人の自由と平等という理念に合致し,かつ,様々な地域からの移民をアメリ
カ人として受け入れてきたアメリカの形成過程そのものとも合致する合理的な方向であったと
いえよう。
また,公民権運動は,その方法・手段・戦術においても合理的なものであった。すなわち,
一方では,人種差別制度への抗議と抵抗を,草の根の大衆のエネルギーに依存しつつ街頭での
直接行動にでるという戦闘的な形をとりつつ,他方では,非暴力主義を貫くことにより,無抵
抗の黒人に暴力を振るう警察や白人優位主義者の非道さを世界に訴え,多くの白人の良心を揺

り動かしたのである。運動が,後に白人と黒人との間に憎悪や怨恨を残すのではなく国民の融
和に結びついてきたことの大きな要因が,この運動の理念と手段にあったことは明らかである。
公民権運動は,そのような特徴において歴史に例を見ない偉業であるだけでなく,今後の世界
における社会変革を導く理念と手段として人類の未来を照らし出しているとも言えるであろう。
第四に,公民権運動がキリスト教国であるアメリカで,キリスト教の理念に基づいて行われ
たことである。公民権運動は,黒人教会を母体として始まり,キリスト教の牧師であるキング
牧師をはじめとする南部黒人教会の指導者が運動の戦略・戦術を決定することができた。これ
は,アメリカ国民の多くが共有する価値観を土台にして黒人たちが自らの大義を人々に訴える
ことができたことを意味する。多数派の白人の心を動かす以外に勝利しえなかった運動におい
てこれはきわめて重要な要因であった。
そうした公民権運動を成功に導いた様々な要因のなかで,拙論が特に注目したいのは,キン
グ牧師のキリスト教思想である。キング牧師は運動の理念と手段をキリスト教の教義そのもの
によって基礎づけたのである。
キング牧師といえばガンジーの非暴力的抵抗から学んだということが強調されるが,キング
牧師は,彼が理解するものとしてのキリスト教的土台の上にガンジーの非暴力的抵抗の思想を
受け入れたと言ったほうがむしろ正しい。キリスト教的土台がなければ非暴力的抵抗運動は単
なる戦術となり,本当の意味で人々を鼓舞することはできなかったであろう。運動を支えた精
神の真髄を成すのはキング牧師のキリスト教理解だったのである。
そのようなキング牧師のキリスト教思想を体系的に見ることができるのが,彼の牧師として
の説教集 Strength to Love(1963 年)1)である。拙論の目的は,Strength to Love の分析を通
じてキング牧師のキリスト教観を分析することにある。
***
Strength to Love(1963 年)は,1955 年末,公民権運動の引き金となったモンゴメリー・バ
スボイコットから 1963 年のワシントン大行進に至る 8 年間にキング牧師がモンゴメリーのデ
クスター・アベニュー・バプチスト教会(Dexter Avenue Baptist Church)とアトランタのエ
ベネゼール・バプチスト教会(Ebenezer Baptist Church)で行った説教をまとめた書物であり,
その幾つかは,ジョージアの刑務所内で書かれたものだという。つまり,公民権運動の実践の
なかで生まれ,鍛えられ,試されたものとしての性格を持っているのである。
従来,キング牧師といえば黒人差別廃止運動の指導者として,また,マハトマ・ガンジーの非
暴力的抵抗運動からその哲学を学んだ人として日本でも広く知られているが,キング牧師のキリ
スト教思想については黒人問題に関心の深い研究者の間でもあまり知られていない。アメリカに
おいても「キング牧師の思想の研究者がキングのキリスト教神学者としての貢献についてまと
まった研究をしていない」という指摘もあることから事情はそう変わらないようである 2)。
だが,キング牧師に関心のある人々の間での本書の位置は思いのほか高いようである。本書
の序文において故コレッタ婦人は,「キング牧師が書いた本のなかで,これを読んで私の生き
方が変わったといつも言っていただける本を一冊あげるとすれば,それは Strength to Love で
す」3)と述べているからである。
このコレッタ婦人の言葉の正しさに私自身が肯首したのは,イギリスのブラック・ブリティッ
シュの作家,キャリル・フィリップス(Caryl Phillips)の  Cargo Rap を読んだときのこと
である 4)。

物語は,ブラック・ナショナリズムが台頭した 60 年代初頭から末にかけてのアメリカのア
ラバマ州の獄中を舞台に,黒人解放の「革命思想」や理論に目覚めた黒人青年の挫折を描いて
いる。この青年は,「革命思想」の立場から父母や妹の意識を革命的な道に導こうとし,意図
とは逆に彼らを傷つけ,遠ざけてしまう。また,出所の時期が近づくたびにトラブルを起こし,
再び独房に舞い戻るという愚行を繰り返し,物語の最後で絶望と挫折感に襲われる。そのよう
なときに彼が手にしたのがキング牧師の本書であった。本書によって彼は,自分に「愛する強
さ」が欠けていることがその挫折の深い原因であることに気付くのである。
また私は,本書を読みながら,イスラエルとハマスの間の泥沼の暴力と憎しみの応酬のこと
思わざるを得ない。それこそキング牧師が運動を進める立場から避けようとして論じてきた事
態だからである。キング牧師のキリスト教の哲学と倫理は次に見るように徹底してそれを乗り
越える論理,闘いを通じ,敵同士であった人々の間に相互信頼に基づく平和的共存を可能とす
る論理を追求しているのである。


***
本書においてキング牧師が語っているのは,キリスト教徒としていかに生きるのかという普
遍的なテーマであるが,それを聴いているのは公民権運動に参加している黒人信者たちであり,
キング牧師が語るキリスト教徒としての生き方とは,黒人たちがキリスト教徒として公民権運
動を闘う上での基本的な生き方,考え方なのである。つまりキング牧師はキリスト教の教義を
社会変革に深くかかわるものとして理解し,語っているのである。言い換えれば,キング牧師
は「解放の神学」としてのキリスト教理解をすでにこの時期に自分のものにしていたのである。
では何故,どのようにして,若干 26 歳の青年牧師としてモンゴメリーのデクスター・バプ
チスト教会にやってきたばかりのキング牧師がそのような先駆的なキリスト教思想を持つこと
ができたのであろうか?これについては,キング牧師の生い立ちや,思想形成過程を描いてい
るキング牧師の自伝が重要であることはいうまでもない。ここではキング牧師の思想形成に焦
点を絞り,おもに自伝に依拠しながら簡単にまとめておきたい 5)。
キング牧師は父が牧師を務めるアトランタの黒人教会で育つのであるが,やがて黒人教会の
感情的で熱狂的な礼拝のスタイルやで聖書の字句をそのまま信じる信仰のあり方に疑問を抱く

ようになる。しかしモアハウス大学に進学しキリスト教神学の授業を受け,初めて,科学や思
想の現代的展開を踏まえた知的に洗練された現代的聖書解釈に触れ,大学卒業時に父の後を継
いで牧師になる。
次に進んだクローザー神学校(Crozer Theological Seminary)ではジョージ・W・デイビス
(George W. Davis)教授の福音主義的リベラリズム(Evangelical Liberalism)の講義に深く共
感する。そこには黒人教会では得られなかった知的な満足を得ることができたからである 6)。
他方,人種隔離制度という社会悪の存在に憤りを持って育ってきたキング牧師は,社会悪を
無くすための方法について本格的に勉強し始め,様々の思想家の社会的,倫理的理論を読みあ
さる。そうしたなかでキング牧師に消し難い影響を与えたのは,ウオルター・ラウシェンブッ
シュ(Walter Rauschenbusch)の『キリスト教と社会的危機』であった。この書物のキング
牧師にとっての重要性は,「キング牧師の社会的関心に神学的な基礎を与えた」点にある。す
なわち,キング牧師はラウシェンブッシュの「福音は人間の魂だけでなく,その体も,魂の幸
せだけでなく,物質的な幸せをも,つまり人間全体を扱うべきだ」という主張に共感し,「人
間の魂への関心を表明しながらも,・・・人間の心を窒息させる経済条件,人間の心をダメに
する社会的条件に同じ位関心を寄せないような宗教は精神的に不健全な宗教であり,亡びる他
ないのである」という確信を持つに至ったと述べている。
さらに,キング牧師は,牧師の役割を二元的なもの,すなわち一方で牧師は社会の変革に向
けて個々の人々の精神を変革しつつ,他方では,牧師は社会の変革にかかわり,そのなかで人々
が自己変革できるようにすることが大切だと考えたのである。こうしてキング牧師のキリスト
教は,社会変革的実践を支えるものとしての性格を当初から持ち,解放の神学の先駆となった
のである。
しかしキング牧師はラウシェンブッシュの全てを肯定したわけではない。彼の 19 世紀型の
楽観的進歩主義史観には賛成しなかった。というのは,あまりに人間の性質について楽観的な
見方だと思えたからである。
また,社会悪の除去についての方法に関心を持っていたキング牧師はマルクスにも関心をも
ちクローザーでの二年目のクリスマス休暇に,『資本論』や『共産党宣言』を読む。しかしマ
ルクス主義が①神の存在を認めない,②倫理的相対主義をとっている,③全体主義的政治形態
を取っている,という観点から一線を画す。だがキング牧師はマルクスの思想の全体を否定し
たわけではない。資本主義国における貧富の差や資本主義の功利主義,物質主義文化への批判
には共感するのである。
この頃キング牧師は,初めてマスト博士(Dr. Muste)の平和主義の講演を聴き感銘を受け
るが,国家の行ういかなる戦争にも協力しないという立場には納得しなかった。というのは,
ナチス・ドイツやソ連といった全体主義国に屈服するよりも戦争の方が望ましいと思ったので

ある。また,この当時,キング牧師は社会問題を解決する上での愛のもつ力には絶望し,人種
隔離制度を解決するには武装反乱しかないと思っていたという。そこにはニーチェの影響も
あった。ニーチェはキリスト教的倫理―謙譲,犠牲,天国への願望―を弱さの美化であり,必
要と無力から美徳を作り出そうとする試みだと攻撃し,大衆への軽蔑に立って,強者による支
配を主張していたのだ。
そのようなときインドから帰ってきたハワード大学のモルデカイ・ジョンソン博士(Dr.
Mordecai Johnson)のマハトマ・ガンジーについての講演を聴き感銘を受け,ガンジーの本
を読み漁る。そしてガンジーの行った非暴力的抵抗の運動のなかに社会を変える力としての
「愛」の可能性を知る。それまでキングは,「右の頬を打たれたなら」や「汝の敵を愛せよ」と
いう教えを個人と個人との関係においてしか有効でないと考えていた。しかしキング牧師は,
キリストの愛の教えを,大規模な社会変革への原動力にまで高めた最初の人だとガンジーを位
置づけ,他の思想家には得られなかった知的,道徳的満足感を得たのである。
クローザー神学校での最後の年に,ラインホルト・ニーバー(Reinhold Niebuhr)を読み,
クローザー神学校に入学したときに受け入れていた福音主義的リベラリズムの人間の性質につ
いての考え方「すなわち,人間は本来的に善であり,その理性の力を信頼すべきである」とい
う考えを検討しなおすことになる。すなわちリベラルな考え方の根底にある「人間の性善説」は,
悲惨な歴史の事実に合わないことに気づき,人間の罪深さに思い至る。また,人間は,理性を
悪のために,また悪を弁護するためにも使ってきたことを無視できないと思うのである。他方,
人種問題がしだいに解決の方向に向かってきていることを考えたとき,「人間の性質における
高貴な可能性」にも思いをはせる。そして人間の心を悪と善の力がせめぎあう場として捉える
のである。
また,2004 年に出版されたキング牧師についての伝記 To the Mountain Top 7) は,「自伝」
からは知り得なかった広がりや観点からさらに豊かに当時の文脈を照らし出している。
たとえば,著者のスチュアート・バーンズ教授(Stewart Burns)はキング牧師の思想につ
いて,奴隷制に基礎を置く黒人教会の教えとガンジーの非暴力的抵抗が結合されたものだと指
摘している 8)。 黒人教会という意味には二点ある。一点は,多くの白人プロテスタント教会が
避けてきた点,すなわち,この世の悪の存在を強く意識し,それと人間は闘う必要があるとい
う旧約聖書の伝統と,新約聖書の愛の原理を結合した点にあると指摘している。クローザーの
時代に,福音主義的リベラリズムに大きな影響を受けながらも,その性善説的人間観に批判を
深めていった背景の一つにはこれがあるのであろう。
第二点として,奴隷制の時代に生まれた黒人教会の伝統のなかにはアフリカ的宗教の特徴で
ある自然のなかにある神と人間との間の親しい関係という特徴が,黒人教会においては信者が
神と感情的な結合を果たし,それを激しい踊りや叫びにおいて表現するという形で継承されて

いることを指摘している。

バーンズ教授によれば,キング牧師の家系には黒人教会のそのような伝統が引き継がれてい
る。キング牧師の桧祖父は,奴隷制末期に白人と黒人の双方を受け入れたバプチスト教会で熱
烈な信者となり南北戦争後,教会が黒人と白人に分裂するなかで,黒人教会の牧師として黒人
たちの間にキリスト教を広めた。その息子は,同じく黒人教会の有名な牧師となるが,その娘
が結婚した相手がキングの父親であった。キングの父親は結婚当時,ジョージアの田舎の黒人
教会の牧師であったが,後にアトランタのエベネゼール・バプチスト教会の牧師となったので
ある。9)
黒人教会の上記のような伝統は父親の教会にも受け継がれていたのである。しかしキング牧
師自身は,そのような黒人教会の伝統をあまりに感情的であるとして嫌い,クローザー神学校
においてはキリスト教を知的・理論的な形で理解しようとしていたのである。しかし,次に進
んだボストン大学の神学大学院での博士号論文においては,白人神学の代表的な理論家ポール・
ティリッヒ(Paul Tillich)やカール・バルト(Karl Barth)の理論によって神の概念と存在
を基礎づけつつ,人間の運命に対する超然とした神という白人神学の神の概念には立たず,黒
人教会の伝統に依拠し,人間がこの世でぶつかる問題や苦しみに関心をもち,一人一人の人間
とともにあるものとして神を理解し,そして彼自身,公民権運動の厳しい局面で神との対話を
体験している。つまり,キング牧師は,まさに否定の否定という弁証法的な形で黒人教会の伝
統を理論的な次元で受け継いでいるのである 10)。
さらにバーンズ教授は,キングの教会での説教を,モンゴメリーでの黒人たちのバス・ボイ
コット運動の高揚と彼らの意識の変革という文脈のなかに置いて理解している。つまり,キン
グ牧師は,黒人キリスト教徒たちがバス・ボイコットに参加した背景には長年のバスでの白人
の運転手からの非道で屈辱的な扱いへの鬱積した怒りがあり,バス・ボイコットが提起された
とき,それを自分たち一人々の闘いとして受け止め立ち上がったこと,だからこそ,参加者全
員が運動の指導者なのだと言う意識をもっていたこと,そして,市当局がキング牧師をはじめ
とする指導者たちを起訴し,投獄したとき,黒人大衆はその指導者を励ますために警察署の前
に集まり,自ら出頭した指導者たちを励ましたのである。そのような黒人大衆の姿のなかにキ
ング牧師は黒人たちの新しい意識の目覚めを実感したのである。11)つまり,キングの説教は,
それを受け止めようとする黒人たちとの絶妙なコール・アンド・リスポンスのなかで話された
「状況の言葉」だったのである。
そのようなことを踏まえながら,次に,キング牧師がどのようにしてキリスト教思想を公民
権運動を闘う知的・理論的武器に鍛え上げているのかを検討してみたい。
***
本書の第一の特徴は,南部における人種隔離廃止運動をキリスト教の理念に相応しく,かつ

力強く推し進める上で必要な人間の主体的な資質や生き方,考えかたを論じていることである。
このような社会的,実践的な立場の故に,キリスト教徒でなくとも人種差別に反対する人であ
れば,キング牧師の思想から学ぶことができるのである。
第二に,キング牧師はキリスト教の理念を原点に立ち返って求める。すなわち,キリストそ
の人および,パウロをはじめとする弟子たちの言行を,その時代のコンテキストを意識しつつ,
本来の意味に立ち返って明らかにしつつ,そこから根本的に重要と彼が考える点を明らかにし,
公民権運動を闘う人々に提供しているのである。そして,それは運動を進める主体としての倫
理観・人間観に深くかかわっている。
もう一点強調すべきだと思われる点は,キング牧師が,自分が生きる時代の諸課題を鮮明に
意識していたという点である。キング牧師は,黒人への人種差別,人種隔離制度はもちろんの
こと,核戦争による人類の滅亡の危機,アメリカ資本主義のもとでの機械化の進行と労働者の
失業,富のあまりに不平等な配分,アメリカの第三世界支援の問題点,荒れ狂う赤狩のもとで
の言論の自由への弾圧,等,その時代の重大な政治・経済・社会にかかわる問題を強く意識し,
アフリカやアジアの人々が植民地の頸木からの解放のために立ち上がり,今や時代が新しい方
向に向かっていることを意識していたのである。
さらにキング牧師は,共産主義をどう見るのか,科学と宗教の関係,宗教の現代における独
自な役割等,思想的・哲学的課題をも正面から取り上げ,説教のなかに組み込んでいる。
つまり,キング牧師は,一方でキリスト教の原点に立ち返りつつ,他方,キリスト教徒とし
て人種隔離制度の撤廃をはじめとして現代の諸課題にいかに立ち向かうべきなのかを論じてい
るのである。それはまさしくキリスト教の現代的意味を論じるということにほかならない。こ
のように社会正義の実現という実践的課題をキリスト教の課題として受け止める点にも,アウ
シェンブッシュの思想とも合間って,奴隷制の時代に,エジプトに奴隷として幽閉されていた
イスラエル人を解放した指導者モーゼに一体化した黒人教会の流れに掉さすキング牧師の特徴
が表れているともいえよう。
そのような観点からキング牧師のキリスト教観について,本書に依拠しながらまとめて見る
のが拙論の課題である。
***
キング牧師は,本書の第一章「強い心と優しい心」( Tough Mind and Tender Heart )に
おいて,強い人間はその心のなかにそれぞれに強力な反対物を持ち,その二つを和解させつつ
統一しなくてはならないとしている。これはヘーゲルの弁証法に依拠した発想であるが,キン
グ牧師はイエスのある教えのなかに,その例を見出している。それはイエスが弟子たちを神の
教えを伝導すべく世の中に送り出すときに「私はあなたたちを,狼の群れのなかの羊のごとき
ものとして送り出すのだ」と言い,彼らに行動の指針として「蛇のごとく賢明で,鳩のごとく

善良であれ」と言ったのである。

蛇がもつ狡猾さというイメージと鳩がもつ無垢という反対イメージを人格のなかに兼ね備え
るというようにも解釈できるのだが,もう一つの解釈として,蛇の知性や知恵と鳩の善良さを
併せ持つ必要とも理解できる。後者であるとすれば,知性や知恵に代表される認識力と善なる
価値観という異なったヴェクトルを持つ特質の結合が必要であるという命題として理解し,読
み進めてゆきたい。
キング牧師は,イエスの教えから,この部分を取り出し,説教集の冒頭に置き,説教集の基
調に据えることによって,自分がキリスト教神学をどのような角度から切り取っているのかを
明らかにしている。ここでは神の正当性や概念,また神の教えについての神学的論争が目的で
はないのである。むしろ,それらを踏まえつつ,世界にそれを伝導するという局面における心
構えの基本を論じているのである。それはキング牧師が,伝導に立ち向かおうとするイエスの
弟子たちの状況と差別廃止のために闘う黒人たちの状況との間に共通性を見出し,イエスが弟
子に与えた心構えから学ぶことを基調に据えたからであろう。
すなわち,黒人への差別的制度の不当性を訴え,社会正義を実現するという課題を持って(神
の教えを広めるという課題を持って),黒人に身の程を心得させようという白人たちのなかに
飛び込むという厳しい状況に立ち向かおう(狼の群れのなかの羊)とする弟子たちにはどのよ
うな心構えが必要なのかを説いているのである。
そしてこの冒頭の心構えがあらゆる局面のなかで貫かれ,非暴力・直接行動へとつながって
行くのである。そのような意味において「強い心=知性」と「優しい心=善」の統一は,はキ
ング牧師の説教集,あるいは非暴力・直接行動の思想の出発点であり,土台であり,核心である。
そこには旧約の「正義の神」とイエスが新約において新たに切り開いた「愛」の神が統一され
ており,すでに見たように黒人教会の伝統がそこに継承されているのである。
このようにキング牧師はヴェクトルの異なる二つの心を共に持つことを心構えとして提起し
たうえで,その二つの構成要素について説明し,その必要性を説く。
「強い心」とは鋭い批判的知性と断固たる性格の結合である。キング牧師は,この「強い心」
に「軟弱なる心(Soft mind)」を対置している。「軟弱なる心」とは,考えることが苦手で,
安易な解決に走りやすく,世の宣伝や嘘,迷信,人種主義的偏見を無批判的に受け入れ,現状
に甘んじ,変化を恐れる精神である。
では,キング牧師は,「優しい心」をどのように定義しているのか?それは人を愛する心で
あり,苦しむ人々を深く思いやる心である。
では,キング牧師が「自由と正義の為の闘いを創造的に押しすすめるためにはその両方を人
格のなかに併せ持つことが必要だ」と考えたのは何故か?それは,いずれか一方だけでは不正
な現実への屈服か,暴力と,それに対する報復の連鎖を生み出し,創造的な形での新しい社会

や人間関係を生み出すことができないと考えたからである。
たとえば,「強さを欠いた愛」は,「圧迫に対処する唯一の方法はそれに適応することである」
と考え,不正や現実の悪に受け身で,無気力で,屈服・妥協し,いつわりの平和を求める態度
を生み出すからである。キング牧師は,モーゼがエジプトで奴隷の身となったイスラエル人を
解放へといざなおうとしたとき,「奴隷は必ずしも解放者を歓迎するものではない」ことを知っ
たという。解放にともなう試練を恐れ,未知なる世界への冒険や挑戦にしり込みし,たとえ隷
属の身であろうと慣れ親しんだ場所におり続けることを望む人々がいたのである。
他方,「愛する心を欠いた強さ」は,「冷たく,超然とし」「他の人々を自分の目的への有用
性においてしか評価せず」,「あまりに自己中心的であるがゆえに,他の人々の喜びや悲しみを
分かち合うことができない」という。
そして「愛の心を欠いた強い心」の持ち主は,闘いの過程で「無情で憎しみに燃えた人々」
を生み出す。彼らは「敵に対し,暴力と,自分の心を蝕む憎しみを持って闘う」。だが「憎し
みは一時的な勝利しかもたらさない。暴力はそれが解決する以上の多くの問題を作りだし,永
遠の平和をもたらすことができない」,という。
こうしてキング牧師は,自由への闘いの方向として,「強い心と優しい心」を結合し,軟弱
な心による自己満足や無作為を避けつつ,他方,「冷酷で無情な心」による暴力や憎悪の道も
とらない第三の道,すなわち「非暴力的抵抗の道」を指し示すのである。
「強い心と優しい心の結合」という基本命題のキング牧師の思想のなかでの重要さは,この
章の最後で,「強い心」と「優しい心」を併せ持つ存在の極致が実はキリスト教の神そのもの
であるとしていることからも明らかである。
そしてその神は,様々な過ちや失意に孤独や苦しみの最中にある場合でさえ私を決して見捨
てないと主張し,神は人格を備えた身近で個人的存在だとする黒人教会の伝統の上に立ってい
ることを示しているのである 12)。
このようにキング牧師は第一章において,闘いに必要な人間像の基本的な姿,特徴,資質を
提示しつつ,それが同時に神の姿そのものであると主張しているのである。そして,後の章に
おいて,一章で提示された人間像の意味や,人間像を構成する幾つかの重要な要素をさらに展
開し,深めているのである。以下,それぞれの章が,第一章の人間像との関係で何をどのよう
に展開し,深めているのかを見てゆくことにする。
第二章のタイトルは「自己変革をとげた非大勢順応主義者( Transformed nonconformist )」
である。第一章でキング牧師は自由のための厳しい闘い(狼のなかの羊)のために「強い心と
優しい心」を兼ね備えた人間的資質の必要を説いた。そしてこの章でキング牧師はパウロの「我
らは天国からの植民である」という言葉を引用し,かつてローマ人がローマ植民地にローマ的
生活様式や秩序を広めたことになぞらえながら,キリスト教徒の使命を天国の秩序をこの世に

おいて実現することであるとしたのである。これはイエスが弟子をキリストの教えを広めとい
う使命をもって送り出すという第一章の言い換えだと考えられる。そして第二章は第一章で提
起された「強い心」の秘めた別の側面を照らし出すためであろう。すなわち,キリスト教徒の持
つ価値観や考え方は,現実の世の中の大勢を支配する秩序や考え方と対立しており,孤立を余儀
なくされることもあるとし,孤立を恐れ大勢に順応してはならないと主張しているのである。
折しも,公民権運動が始まった時期は冷戦の開始を背景とし,アメリカで赤狩りが猛威を振
るった時期でもあった。まっとうな意見でさえ,「赤」とレッテルを張られ,公職を追放され
る恐怖に怯え,大勢に従う傾向が支配した時代であった。キング牧師は,「強い心」のもう一
つの表れとして,そのような時代のなかで正しいことをいうのに孤立を恐れ,大勢に流されな
い「強さ」の必要を説いているのである。

だがキング牧師は第二点として,その前提として次のことを強調している。すなわち,「大
勢に順応しないこと自体が善であるわけではなく」,「神」の声を自分に受け入れること,自分
の精神を刷新し,そこから生まれる確信に依拠することの必要である。それが「自己変革を遂
げた」ということの意味である。
ここで言われている「神」の概念を,キング牧師が第 1 章の最後で述べていた「神」の概念
に重ね合わせて見よう。それは何ら神秘的な概念ではなく,「強い心」と「優しい心」を究極
的に併せ持った存在である。それは「謙虚さと愛の精神を持って,この世の悪と強力に闘う」
神である。このような精神を身につけることを「自己変革を遂げる」と呼んでいるのである。
そして,そのような精神を持ってこの世で活動することがキリスト教徒の使命であり,それは
孤立も恐れない精神を必要とすると述べているのである。
さらにキング牧師は第三章から第五章までを自分の「愛」についての思想の展開に充ててい
る。この「愛」の精神こそはイエスの,そしてキング牧師の思想の核心を成すとともに,最も
理解と実践が困難な思想だからであろう。そしてキング牧師のいう「愛」とは実は「強い心」
と「優しい心」を高度なレベルで統一したものであることを示すのである。
第三章は,「善き隣人であること( on being a good neighbor )」である。キング牧師は,
有名な「善きサマリア人」の寓話をもちだす。すなわち,ジェリコへの危険な道で盗賊に襲われ,
瀕死の重傷を負って道端で倒れている人を通りかかったユダヤ人の司祭もリーバイト人も見て
見ぬ振りをしたのに対し,サマリア人だけが助けたという寓話である。
ではこの一見素朴な寓話からどういう意味を引き出すのか?キング牧師は,このサマリア人
の善行を特徴づけて「利他主義」と呼ぶ。「利他主義」とは「他者の利益への関心や献身」を
意味し,「人類愛」と言った場合の「愛」を定義したものと考えてよいであろう。問題はこの「利
他主義」の対象,すなわち「愛」が向けられるべき対象は何かということである。
キング牧師はサマリア人の「利他主義」をユダヤ人の司祭やリーバイト人の態度と比較する。

ユダヤ人の司祭やリーバイト人は,倒れていた人が自分の属する部族や宗教のものではなかっ
たので無視したのである。だがサマリア人にとって愛すべき隣人とは,「特定の誰かではなく,
任意の,道に倒れ,助けを必要としていた人である」。つまりサマリア人は,人が属する人種,
部族,集団,宗教,国籍を「外的偶然時」,つまり非本質的なことととらえ,そのような表面
的なことの奥にある,助けを必要としている同じ人間を見ていたのである。キング牧師はその
ようなサマリア人の「利他主義」を「普遍的」利他主義と名付ける 13)。
次にキング牧師は,ユダヤの司祭やリーバイト人の考え方が実は人類の歴史以来の伝統的な
ものであると指摘し,ユダヤ教自身がイスラエル人のための部族宗教であり,「汝殺すなかれ」
はイスラエル人に限定されていたこと,アメリカ独立宣言の「人間は生まれながら平等に創ら
れている」という有名な文章の「人間(men)」からは女性や黒人が排除されていたこと等の
例を上げる。それらは皆,「汝」「人間」と言った普遍的な言葉を用いつつ,その実自分が属す
る集団以外を排除する狭い人間観をひそませていたのである。
キング牧師はこの寓話によってイエスの説く「隣人愛」が歴史的にも新しい「普遍的利他主
義」であったことを明らかにし,「愛」の概念を現代的に豊富化しているのである 14)。
キング牧師はそのようにして愛の対象を広げた上で,さらにサマリア人の「愛」の性格を別
の観点から論じる。サマリア人の「愛」は,自分の身を危険に曝しても困っている人を助けよ
うとする「危険な」愛であったとする。「危険」という意味は,「普通の人ならこの人を助けよ
うとしたらどのような危険が自分に降りかかるであろうか」と考えるところであるが,サマリ
ア人は,この発想を逆転させ「もし,自分が助けなかったら,この人はどうなってしまうだろ
うか」と考えたところにある,という。つまり,危機の時代に際し,自らの安全・地位・名声
への配慮を第一に置くのではなく,他者の幸せを考えるという資質を「愛する力」という概念
に加えているのである。これは「利他主義」をさらに深くつっこんで展開したともいえるであ
ろう。
さらにキング牧師は,サマリア人の愛は,通常の人間としての社会的義務をはるかに超えた
「過剰ともいえる愛」であったという。ここでキング牧師は,法律による義務や強制による行
動と,それを超えた,心から溢れるものとしての「愛」を区別し,法的強制が持つ社会変革に
おける重要性を強調しつつ,真の人間的な社会の創造は,心から溢れるものとしての「愛」に
基づくものでなければならないと論じる。法によって白人の行動や変えることはできても,白
人の黒人への心のなかの「恐怖,偏見,高慢,非合理な感情」を変えることはできない。新に
「統合された社会」は,強制された法によってではなく,自発的な,心から湧き出る「愛」によっ
てしか実現できないし,支えられない,というのである。こうしてキング牧師は,「自発的に
溢れる愛」に社会変革・創造の原動力であり,究極の目的としての位置を与えるのである。ま
とめれば,キング牧師のいう愛とは,深い意味での普遍的利他主義であり,そして,それは社

会変革の主体的原動力であるとともに,未来の社会を支える精神でもある。
このようにして第三章において示される「愛」の思想は単なる「愛」を遥かに超えた,人類
の歴史を一歩前進させる強靱な理性や勇気,優しさに裏付けられたものであることが理解でき
よう。それが「強い心」と「優しい心」をより高度な次元で統一したと私のいう意味である。
だが,そのようなものとしての「愛」の実現のためには社会的不正と闘わねばならない。そ
こに生まれるのが敵,味方の関係である。そこで,問題となるのが,いかにすれば敵を許すこ
とができるのか,という難問である。だから第四章,「実践された愛( Love in action )」は,「愛」
のもう一つの形態としての「許し」について論じることになる。
キング牧師は,十字架の上のイエスが放った主への祈り「彼らを許したまえ,なんとなれば,
彼らは自分のしていることを理解していないのです」を手掛かりとして,どのようにして自分
を殺そうとする相手を許すことができるのか,という難問に取り組む。キング牧師が説いてい
るのは次の二点である。

一点は,「汝の敵を愛せよ」という思想は,イエスが一貫して信者に説いていた思想であり,
それをイエス自身が実行して見せたこと,しかも,それは自らの死の苦しみを前にし,自らの
命を奪う相手に対して言われた言葉であることである。要するに,キング牧師は,「汝の敵を
愛せよ」という思想をイエスがそれだけの重みを持って理解していたのだと指摘しているのだ。
そして命と引き換えにイエスが発した「彼らを許したまえ」という言葉は,旧約聖書の敵への
報復の論理=伝統的・歴史的思想とは真っ向から対立する思想であり,そこにこそイエスの教
えの革命的斬新さがあったことである。
二点目は,キング牧師が,「イエスの十字架上での祈りには,人間の知的・精神的盲目性に
イエスが気づいていたことが示されている」とし,「無知が彼らの問題であり,啓蒙こそ彼ら
が必要としているものである」と指摘していることである。キリスト殺しという後のキリスト
教徒からすれば許し難い行為の背後にあったのは,悪なる人格というより,無知であるという
のだ。イエスが説いた教えの革命的斬新さを考えたとき,当時の人々がそれを理解し得なかっ
たこと,故に自分が殺されるであろうことをイエスは知っていたのであろう。
そしてキング牧師は,無知なるが故に考えの違う相手を迫害し,戦争をあおり,人種主義を
実行する人々が沢山存在すると指摘している。たとえば,かつてキリスト教徒の迫害の先頭に
立ったユダヤ教徒であったサウルは神の啓示を受け,キリスト教徒となり,パウロとしてイエ
スの教えを広くローマ世界に流布することとなった。また奴隷貿易や奴隷制は富をもたらした
が故に正当化され,そのために人種主義イデオロギーが作られたのであるが,それが定着し,
制度化されると人々はそれが当たり前で自然なこととして生まれたときから教えられるに至
り,誠実な普通の白人市民が人種主義を支持することになるのだという。だから,黒人は,白
人の人種主義的な行為のみを見て,白人を憎しみとの対象とするのではなく,白人の無知と闘

いつつ,許すという態度が必要だというのである。
キング牧師は,そのようにして「復讐」の論理を乗り越え,「許す」ことを可能とする論理を,
非道な行いをする人間の「知的・精神的無知」に求める 15)。 ここにも相手の行為を「無知」の
結果として理解する高い理解が,すなわち「強い心」が働いていることが重要である。
次の第五章の「汝の敵を愛すること( Loving your enemies )」でキング牧師は,「いかに
すれば我々は敵を愛することができるのか?」というさらに大胆で根本的な問いかけかけを行
い,それに対する自分の考えを順を追って説明する。第一に来るのは,上記の「敵を許す」こ
とである。「敵を愛す」ためにはまず,我々に危害を加えた敵を「許す」ことが必要だからで
ある。我々はすでに「敵を許す」根拠を的の「知的・精神的無知」にキング牧師が求めている
ことを知っている。キング牧師がここで付け加えているのは,「許す」ことの意味である。キ
ング牧師は,それは相手の行為を忘れることではなく「相手のなした行為がもはや,相手と関
係を持つ障害にはならない」ことを意味するという。
敵を愛するために必要な第二番目のことは,「敵の邪悪な行為は相手の人格の全てではない
ということを理解し」また,「最悪の人間にさえ善の欠片が存在し,最高の人間にさえ幾分か
の悪が存在する」ということを理解する必要があるという。16)そしてこのことを理解するため
にキング牧師は自らを振り返ってみる必要があるという。すなわち,そもそも,どのような人
間も「自己矛盾に引き裂かれた側面」を持っており,「したいと思うことができずに,しては
いけないことをしてしまう」というパウロの人間の性についての言葉を引き合いにだす。それ
がわかれば「敵を今までとは違った風に見ることができ」「敵の抱いた憎悪は,恐怖,プライド,
無知,偏見,そして誤解から生まれたことがわかり」,「敵が全面的に悪であるのではなく,神
の救済的な愛の手の届くところに居る存在なのだと理解し,愛することができる」という。
第三番目にキング牧師が指摘しているのは,敵への根本的態度や行動として「敵との間に相
互理解を築きあげ,憎しみの壁によって塞がれていた相手の善意の貯蔵庫を解き放つことが可
能なように語り,振る舞うことが大事だと」いうのである。言い換えれば,敵を打ち負かしたり,
屈辱を与えたり,とどめの一突きを与えることが目的であってはならないという。つまり,「敵」
を愛することができるためには,相互理解という武器によって敵を愛すべき味方に変えるとい
う態度が必要だということであろう。
次にキング牧師が説明するのは,「敵を愛」すると言った場合の「愛」という言葉の意味で
ある。「愛」は「好き」という感情とは全く違うという。人は「子供を脅迫し,家に爆弾を投
げ込む人間を好きになどなれない」という。だが,「愛」とはもっと大きなものであり,「アガペ」
としての,「すべての人間にたいする理解に支えられた,創造的な救いとなる善意」として「愛」
なのだという。
我々は,そのようなキング牧師の言葉のなかに,「強い心」と「優しい心」が「理解と善意」

という形を取って作用していることに気付く。繰り返すが,キング牧師のいう「愛」とは,単
なる「優しい心」を超え,そのより高度な段階においては強力な理性・知性に媒介され,支え
られ,拡張され,深められたものとしての愛なのである。
次にキング牧師は何故,「愛すること」が必要なのかと問いかける。キング牧師は,それを
二重の視点から論じる。第一に,敵に与える効果である。憎しみに対し,憎しみを返すことは
憎しみを増幅することにしかならず,愛のみが相手の憎しみを取り除くことができるという。
第二に,自分にどのような効果を与えるのかという視点である。憎しみは我々の心を傷つけ,
人格を歪めると指摘する。過度の憎しみは,我々の心のバランスを失わせ,正しい物事の判断
力を失わせるというのだ。
そして最後に愛は敵を友人に変えることのできる唯一の力だという。キング牧師はリンカー
ンの例を挙げている。大統領選挙で彼の政敵となり,ありとあらゆる悪口を言った相手を自分
が大統領になったときに,その軍人としての能力を公平に評価し,国防大臣に任命したのであ
り,そのかつての政敵がリンカーンを「偉大な人間」だと評価したという話である。
キング牧師は,第九章の「打ち砕かれた夢( Shattered dreams )」という説教を始めるに
あたり,「人間の経験のなかで最も苦しいことの一つは,ほんどの人が,最も大事にしている
希望が実現するのを生きて見ることができないことだ」という言葉で切り出している。つまり,
キング牧師は,公民権運動の成功を生きて見ることができない多くの人々を想定し,「挫折」
への心構えを論じるのである。こうして,第九章は,本書の第一章が弟子たちをキリスト教伝
道に送り出す際のキリストの弟子たちへの助言で始まったのに呼応し,しめくくりの位置づけ
を与えられていると見ることができよう。ここでキング牧師が取り上げているのは,キリスト
教の布教のために世界を歩き回ったパウロが,当時の世界の果てともいうべきスペインでの伝
道を夢見,その帰路でのローマのキリスト教徒との再会を熱望しつつ,実際は,囚われ人とし
てローマに連行され,牢獄で息絶えたという挫折のエピソードである。
キング牧師がここで論じるのは,我々は人生のなかで体験する挫折にどのように対処すれば
よいのかという問題である。キング牧師は,幾つかの挫折に対するよくある反応を取り上げて
いる。その一つは,挫折による怒りと恨みを他者に向けることである。(何の罪もない人を「誰
でもよかった」と殺害してしまうという事例等はまさにこのような心の屈折の結果であろう)。
また,挫折によって,自分に引きこもり,他者に心を閉ざしてしまい,この世のことに無関心
となり,超然とした態度を取る人もいる。また,運命論的に挫折を受け止め,運命に身を委ね
る人もいる。
キング牧師はそれらの態度を批判したあとで,「これは悲しみである。そして私はそれに耐
えなくてはならない」という旧約の預言者エレミアの言葉を引用しつつ,挫折を正面から受け
止め,挫折のなかでも目標や望みを見失わない態度を堅持することによって初めて「負債を財

産」に変えることできるというのである。そのような態度のなかに「神」的なものがあり,嵐
のなかでも揺るがぬ心を持つことのなかに真の心の平安があるという。
このように見てくると本書を通じ,キング牧師が困難な公民権運動を担ってゆく上での基本
的な心構えについてキリスト教の原点に立ち返り,キリストや弟子たちの言行に学びつつ語っ
ていることが了解できる。そしてそこに貫かれているのが,高い運動の志を貫くために,「強
い心」と「優しい心」を兼ね備えることの重要性であり,両者の統一されたものがキング牧師
のいう深い意味での「愛」そのものであることに気付くのである。すなわち,キング牧師はキ
リスト教の思想を公民権運動を闘う心構えや倫理として創造的に展開しているのである。



1)Strength to Love. Cleveland: Collins Publishing Co., 1963.
2)Ibid., Preface, p.11.(Fortress Press edition をテキストとして使用。以下同じ。)
3)Ibid., Preface, p.11.
4) The Cargo Rap , Higher Ground by Caryl Phillips, New York: Vintage Books, pp. 168-9.
5)The Autobiography of Martin Luther King, JR.Ed., Clayborne Carson, New York: Time Warner
Group, 1998.
6)Search for Beloved Community 本書は,キング牧師が自伝においては詳しくは触れていないが,ク
ローザー時代の初期に George W. Davis 教授から学んだリベラルなキリスト教神学がキング牧師のキ
リスト教神学の基本的立場であることを明らかにしている。
7)To the Mountain Top, Steward Burns, HarperSanFrancisco, 2004.
8)Ibid., pp.92-93.
9)Ibid., pp. 47-48.
10)Noel Leo Erskine, King among the Theologians, Cleveland: The Pilgrim Press, 1994, Chapter 1- 3.
11)Ibid., pp. 66-87.
12)Ibid., pp. 45-47.
13)ここにも端的に見ることができるのは,キング牧師のいう「愛=普遍的利他主義」は「強い心=知性
や広い見識」無しには考えられないという点である。いいかえれば,キング牧師の定義する愛は,も
はや単なる「愛」ではなく,狭い経験を超えた知性や見識によって浸透され,媒介され,支えられた「啓
蒙された愛」なのであり,ここに「強い心」と「優しい心」が結合・統一された,という言葉の意味
を見ることができるのである。ヘーゲルの弁証法的な思考をキリスト教の理解のなかに生かしている
のである。
14)「地球市民」という最近よく用いられる言葉は,実は,キング牧師の「普遍的利他主義」を現代風に言
い換えたものと考えてよいであろう。「地球市民」という言葉は,伝統的な,民族・宗教・人種・国籍
の枠に捕われた考え方と対置して理解して初めて意味を持つのである。
15)幼児虐待が実は虐待する母親や父親自身がその犠牲者であり,親として子にどのように振舞ったらい
いのかわからなかったのだ,という例などもこれにあたるであろう。

16)キング牧師が,キリスト殺しの行為の直接の原因=「無知」について指摘したあと,次に行為の主体
の全体の評価の問題を上げているのはきわめてロジカルである。何故なら罪を犯した相手を許すとい
う行為は,その行為のみならず,相手の人格へのトータルな評価にも関わるからである。

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