Books/書評

世界から切り離された自己――『無境界』 ケン・ウィルバー

颐光 2017. 4. 28. 23:23

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西欧の知識や学問ばかりたてまつっている人にははじめて仏教や悟りがなにをいっていたのかわかる本になるだろうし、なにより西欧的などこまでも説明つくそうとするスタイルは、日本的な仏教とちがって、われわれにもっとなじみ深くなっているだろう。

 ケン・ウィルバーは西欧的な心理学――フロイトやユングから、東洋的な宗教までをひとつの階層として統合しようとした人であり、この本を読むことによって総合的に心理領域の知見をもっと広めることができるだろう。

 人間は境界を打ち立てるから、その対立や闘争に駆り立てられるのである。境界のために分断された向こう側からたえず復讐や攻撃をうけるように感じてしまう。

われわれは自分の欠点や劣等感を隠そうとするが、その隠そうとしたことが境界を打ち立て、いつまでもぬぐいきれない神経症的症状や、どこまでいっても排除できない嫌悪する他人となって終始、自分につきまとうように感じられてしまう。

 自分にとって不都合な像を抑圧しようとしたために、浮上しようとする片割れは、自分を責め立てるようになってしまう。これが人間が最終的に打ち立ててしまう「仮面と影」のレベルである。われわれは自分のよからぬ面を抑圧したり隠そうとして、その「非自己」から追い立てられることになってしまう。

 われわれは最終的にはこの「仮面と影」の自我にいきついてしまうわけだが、その前には自分から身体を切り離して、あたかも身体は自分ではなく、自我によって操縦される乗り物のような感覚になって、身体を分断してしまう。

 そしてこの論でいけば、環境すらも自分から切り離した「自己」であったということになる。人は「自己であらざるもの」としてさまざまなものから、自己を切り離して外界をつくってゆくわけだが、仮面のレベルにいきつくまでにさまざまな切り離しがあったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するところである。

ケン・ウィルバーは境界という空間的な見方でこれを説明するのだが、わたしは空想や幻想というアプローチで進んできたこともあって、すこし空間的な捉え方をするケン・ウィルバーには違和感がある。

 唯物論的な分断、自己の切り離しから、すべては心だという唯心論に帰る見方だという理解のほうが、わたしにはわかりやすい。

 他者がわたしに悪いことをしたからわたしの不快な気分はつくられたのだといった見方や、他者の悪い行いや言動を変えない限りわたしの心は晴れることはないといった捉え方は、自己と他者・外界を切り離した考えからおこる。

 対象もわたしの考えや思いであり、それによって自分の感情は変わり、考え方を変えればその感情は変わるし、さらにその思考をなくせば、そもそも感情すらない。「外界はわたしではない」という捉え方のまちがいは、このアプローチのほうがわかりやすい。

 「外界や他者はわたし」なのである。それは自分の心に属するがゆえに、わたしの感情や気分を決定する。外界は自分の心ではないと思っていると、他者や世界が変わるまでわたしの心が晴れることはない。それは自分の思考という原因を見極めないばかりに、他者の言動やおこないに終始、犠牲者にされる哀れな被害者になることである。

 それは素朴な「認識の誤り」というものでしかないものである。宗教というのは、たんに人間が陥ってしまう認識の誤りを訂正するにすぎないのではないかと思える。

人は世界から切り離された分離した自己という捉え方を打ち立てる。そのことによって根絶やしにしようとした「自分ではないもの」にたえず復讐されたり、襲撃されるように思う事態におちいってしまう。外界との分断、切り離しが、われわれにさまざまな不幸をもたらすのではないのか。

 なにかを見よう、分析しようとしたとたん、体験や経験から切り離された自己が生まれる。体験そのものの経験から、それを見ているわたしという分断が生まれる。そうして世界から切り離された自己という強固な思い込みはどんどん成長してゆくことになるのではないだろうか。

 われわれは自我から不都合な影を切り離したように、身体を切り離し影にして、また環境も自我から切り離して、外部の影にしてしまったというのが、ケン・ウィルバーや宗教の主張するとことである。

 こういう世界観が信じられないとしても、途中のレベルではずいぶんと癒しや強力なセラピーとなるものである。とくに思考や感情に同一化しているわたしたちにとって、それらからの脱同一化は、われわれをずいぶんと安らかな境地におく。西欧心理学や自己啓発でこのレベルのセラピーを教えてくれることはまずない。

 ただケン・ウィルバーは思考が幻想や虚構であること、それが存在しないことといったアプローチからはあまり説明してくれない。過去の想起や思考が幻想であり、存在しないこと、この実感がより自身を癒してくれるセラピーになる。

 われわれは目の前に存在しない言葉や思考、会話をもつことによって、ずいぶんと幻想や虚構の世界に生きている。このことの理解のほうが、わたしにはもっと強く望まれる知見なのである。

 われわれはたえず「あるがまま」や「いま、ここ」といったものに「抵抗する」。悟ろうと意志することすら「抵抗」である。思考や想像というのは、目の前にない世界への飛翔である。わたしが融けてなくなってしまうことを恐れてしまうのだろうか。