Books/書評

マーヴィン・ミンスキー 心の社会

颐光 2017. 5. 2. 21:42


産業図書 1990
ISBN:4782800541

Marvin Minsky
The Society of Mind 1985
[訳]安西祐一郎


心とは何かということを説明するには、心でないものが心になっていく仕組を説明しなければならない。その「心でないもの」をミンスキーは「エージェント」とよぶ。
 カップを取って紅茶を飲みたいと思ったときは、掴むことのエージェントはカップを掴もうとし、平衡をとるエージェントは紅茶をこぼさないようにし、喉の乾きをうけもつエージェントは紅茶の温かい液体の潤いを想像し、手を動かすエージェントはカップの把手をめざす。
 紅茶を飲むという行為にはロボットの動きだけでも百回ほどのプロセスが動く。そのプロセスのひとつひとつにエージェントがあるわけではないが、人間の心の動きが形を伴うには、いずれにしてもかなり多くのエージェントがインタラクティブにはたらくと想定できる。
 重要なことは、その一つずつのエージェントには知能はないということである。しかし、いくつものエージェントが組合わさっていくうちに心が生じていく、らしい。心とは、ここでは知能といった意味である。


 たくさんのエージェントがあるだけでは心や知能は生じない。
 第1にはエージェントにいくつかの階層があるにちがいない。そこでは、下位のエージェントの動きが上位のエージェントに伝えられていく。その階層をまたぐたびに「意味」が見える。
 第2に、エージェントは自分が何をしているかを知らないという性質をもっているのだが、そこに、自分が何をしているかを知っているエージェンシーが組合わさる必要がある。そのエージェンシーがどこに待ち伏せているかを突き止めるのは難しいが、もしそのようなエージェンシーがないと、われわれは自分が何をしているのかとか、何を考えているのかという自覚をすることがない。
 第3に、これらの仕組が動くうちに、仮設的な「自己」のようなものが設定されるのだろうということだ。しかし、心を探求するにあたって、この「自己」を探求してしまうことは避けなければなるまい。なぜなら、この「自己」はあくまで仮設的なもので、それによってエージェントの仕組が作動するための蝶番のような役割をはたしているにちがいないからである。生物物理学における自己組織化理論やオートポイエーシス理論において想定された"自己"がおもいあわされる。
 第4に、エージェントには考えを推進するエージェントばかりでなく、何を考えないようにしようとか(押さえ込み)、これまで考えてきたことはこれでいいのだろうか(点検)というような、つまりは「抑制のエージェント」や「検閲のエージェント」があるはずである。


第5に、これらのエージェントはこうした「階層」や「自己」や「抑制」や「検閲」などの機能をフル動員しながらも、何かそのような進み方(これをミンスキーはKラインとよぶ)をすればいいのだという確信をもてるような"報酬"を受けられるようになっているのではないかと推測できる。すなわち、おそらく心というものは、つねに「もっとの社会」(Society of More)をめざしているにちがいない。

 とりあえずこのような説明をしておいたうえで、ミンスキーは七面倒くさい「われわれはどのように心をつかって何かを考えようとしているのか」という複雑な課題に少しずつ向かっていく。
 本書が、いまだ人工知能の夢が潰えていないころの試みであることは、これを読むとミンスキーの指図にしたがって、自分の思索の手続きが順番に見えてくるような、つまりはデキのよい心理小説を読んでいるような気分になれることにその特徴がよくあらわれていることで、よくわかる。
 そのような特徴をもったことについては、もうひとつ理由がある。ミンスキーは心の社会の成立の仕方を「世界→感覚→知覚→認識→認知」というふうに順次的に見ないで、むしろ「感覚→"記述"←期待」というふうに見ようとしているからだ。人間というものが脳の中で何をいちいち記述しているのか、ミンスキーはそこに集中して本書をかいたわけである。小説や映画を構成している監督のような気分で本書が読めるのは、そういうせいでもある。


本書を読んだころに印象に残ったことがいくつかある。
 そのひとつは、ミンスキーがノームとニームを巧みにつかって思考の機能を説明したことである。
 ノーム(nome)というのは、その情報を出力したときに一定のエージェントに決められた反応をおこせるようになっている情報のことをいう。これに対してニーム(neme)は、その情報の出力によって心の中の状態がばらばらではあるが、断片的に表現できるような情報をいう。
 このニームの役割をどのように見るかということについて、当時のぼくは刺激を受けながらあれこれ仮説をめぐらした。
 そもそも一つの情報や知識は、われわれの意識の奥ではつねに多様なエージェントに分配されている。たとえば「リンゴ」という情報は、色、形、おいしさ、故事、それにまつわる体験の記憶といったいくつもの情報断片としてそれぞれのスタック(棚)に分配されていて、それぞれのエージェントの管理に任されている。そこで、われわれが「リンゴ」と聞いたときは、これらのエージェントたちはほぼ同時に起動する。ということは、このように多くのエージェントを同時に動かす多発型の発信点のようなものが、きっとわれわれのどこかにあるはずなのである。ミンスキーはそういう発信点にあたるものを「ポリニーム」とよんだ。
 ポリニームはどちらかといえば機械的に"相手先"に確認通信を送るようになっている。そこでたとえば「天文学者はスターと結婚した」という文章を聞いたときは、一瞬だけだろうが、スターという言葉が星をめぐるスタックにも配信されているのだということを思い出すわけなのだ


問題はこのようなポリニームが何をきっかけに突出したり、逆にポリニームなどを気にしないで思考できるようになるかということである。
 ミンスキーもそのことが気になるとみえ、ある情報の文脈がわれわれの前をさあっと通りすぎていくときに、われわれが巧みに何かを手掛かりにポリニームを発見したりわざと出没させないようにしているのは、きっと何かの兆候を見きわめる小エージェントの機能もあるのだろうと見て、それを「ミクロニーム」とよんだ。
 しかし、このようにニームを分割してしだいに小さくしていくと考えたのは、ミンスキーの失敗だった。ニームはその中にもっと小さなニームをもっているのではなく、むしろなんらかの脈絡でトポグラフィックにネットワークされているはずなのだ。
 ノームについて、ミンスキーが「プロノーム」(pronome)を提案したのは、ぼくが編集工学を組み上げるにあたっての大きなヒントになった。
 これは、われわれが喋ったり考えたりするときに、心のなかでいままさに活性化しつつある"あの流れ"をうまく取り出すために、何か一時的につかまっている思考の手摺りのようなものをいう。初歩のバレリーナが練習をするときに掴む鏡の前の手摺りバーのようなもの、それがプロノームである。
 たしかにわれわれは、何をしているときも、何を考えているときも、プロノームをつかっている。どんなプロノームをつかえているかが、思索のちがいをもたらすといってもよいくらいであろう。おそらくは跳び箱のようなプロノーム、吊り輪のようなプロノーム、自転車のハンドルのようなプロノーム、そういうものがいくつもあるのであろう。
 編集工学において、手摺りとしてのプロノームをどのように独自につくりあげていくかというのが重要になった。


もうひとつ印象に残ったのは「割り込み」(interruption)ということである。
 われわれはあることを考えていても、ある話をしているときも、 それをいったん中断して、別の注意を喚起させたり思考をすることができる。そしてまた、元の思考に戻ることができる。これが「割り込み」だ。
 なぜ「割り込み」がおこせるかということは、一つの考えの流れを別の流れが観察しているということを暗示する。あたかも話し中の電話を保留して、回線を変えて別の話をし、また戻るようなものなのだが、われわれの脳のなかでは、その回線どうしが何らかの観察関係にある。
 ミンスキーはこの「割り込み」が各民族の言語に代名詞を発達させたのではないかと推理している。そうでもあろう。しかし、それだけでもないかもしれない。
 われわれはどんな言葉を喋っているときも、何かを考えているときも、実は多様な「言い換えの分岐ネットワーク」の中を進んでいるのであって、つまりスイッチをいろいろ入れながら言い換えの枝分かれのうちの一つを選択しているわけなのであって、いざというときは、そのネットワークの枝を別の枝が観察できるようになっているはずなのだ。ここでは説明しないが(詳しくは朝日新聞社『知の編集工学』を読んでもらいたい)、ぼくはこのAの枝をBの枝から見るというエクササイズをかなり徹底してやってみたことがあるのだが、ずいぶん容易に観察できるものだった。
 つまり、われわれは「割り込み」ができるのではなく、もともと「割り込み」のような分岐性によって思考や認識をしているというべきなのである。これを一言でいうのなら、思考というものは――「心は」「知能は」と言ってもいいのだが――割れ目からできている、ということである。


参考¶マーヴィン・ミンスキーの「フレーム理論」をはじめとする華々しい業績については、ジェレミー・バーンスタインの『心をもった機械』(岩波書店)が伝記的なことを含めて、詳しい。とくに1956年にミンスキー、マッカーシー、シャノンらが提唱して開催されたダートマス会議をめぐるあたりは、佳日の人工知能派の俊英が何を考えようとしたかを如実に伝えてくれる。その後のミンスキーはMITに移ってシーモア・パパートやディヴィド・マーを招き、黄金時代をつくった。その研究態度はつねに先端的で、かつ理知的であり、最近の「感情のゴール生成機能」の研究でもいまなお未到の分野を走っている。ぼくはモントレーのTEDで出会って以来、何度かその話を聞いてきたが、いつも考えこむような姿勢で抱えているテーマの解剖に向かっていたのが印象的だった。